Introducing Our Church
教会紹介

ルーテル教会とは?
What   is  Lutheran?

1517年にマルチン・ルターの宗教改革により、プロテスタント教会のはじまりとしてドイツで誕生したルーテル教会は、ドイツだけでなく北欧にも広がり、
国民教会となりました。その後、アメリカにも渡り、更にアジア、アフリカ、
ラテン・アメリカなどに至って今では全世界に存在する教会です。
 マルチン・ルターの宗教改革は、当時の16世紀のローマ・カトリック教会が正しい福音信仰に立ち戻ることを聖書に基づいて訴えたものでした。神が
イエス・キリストの十字架と復活によってのみ、私たち人間の罪を赦し、人間はイエス・キリストにおいて示された神の恵に基づいて生かされていくことを強調した教えでありました。ここから、ルターの有名な言葉「聖書のみ、恵のみ、
信仰のみ」 という、宗教改革の三大原理が生まれました。そして、この原理に基づく信仰と改革の参加を当時の全教会に呼び掛け、賛同した同じ信仰を持つ
者たちと、それらの教会において、教義、制度、慣習において必要な改革を行なっていきました。そして、今もなおその改革は進行中です。

アメリカ福音ルーテル教団
Evangelical  Lutheran  Church  in  America   とは?

復活ルーテル教会日本語ミニストリーが所属するアメリカ福音ルーテル教会
( Evangelical Lutheran Church in America:ELCA) は、おもに17世紀、ドイツ、オランダ及び北欧の諸国から、北アメリカ大陸の開拓者としてたくさんのルター派の教会員が移住して来たところにその始まりがあります。
 20世紀に入ると、それぞれの背景を継承しつつ成長して来た3つのルター派のグループが成長し、1987年にはアメリカ福音ルーテル教会 (ELCA) として一つの教団となりました。
 ELCAは、福音の本質を、断罪ではなく赦しと恵みであり、排他ではなく包容であり、そして分け隔てではなく連帯と一致であると捉えます。その裏付けとして、ELCAはすでに1970年には女性を聖職者とし、2009年には性的少数者(LGBTQ)の人々に聖職者として按手礼を授け、2019年にはトランプ政権の移民政策に抗議する形で、自らをアメリカにおける「聖域教団」(Sanctuary Denomination)であると宣言し、不法移民や難民の人々を支え共に歩むことを
宣言しました。

復活ルーテル教会日本語ミニストリーとは?
Lutheran Church of the Resurrection Japanese Ministry

私たち復活ルーテル教会(LCR)日本語ミニストリーは、1964年にハンティントンビーチで始まりました。当時の教会員は殆どがスカンジナビア系、あるいはドイツ系アメリカ人の代々ルーテルの信仰を受け継いだ人達でした。1988年にアメリカ福音ルーテル教会が設立されて以来、様々なアジア系言語やアフリカ系言語、スペイン語、アラビア語をも使ってのアメリカ国内での伝道、
さらには世界伝道にも果敢に取り組み始めました。その一環として、1988年にハンティントンビーチにある復活ルーテル教会に
おいて、日本語伝道が始まったのです。当時の主任牧師であったフォスター牧師が日本福音ルーテル教会から高塚郁男牧師を日本語ミニストリーの牧師として迎えて日本語礼拝を始めた時、何人かの英語部の教会員はこの教会を去りました。それほどアジア系に対する偏見がまだ根強い時代でした。しかし、分け隔てなくすべての人々を救う神の愛と憐れみは、今日に至まで私たち日本語ミニストリー守り導いてくださっています。

復活ルーテル教会(LCR)日本語ミニストリーのビション
LCR Japanese Ministry's Vision

私たちは:
•すべての人々が神の恵みと愛に価すると信じています。
•主イエスキリストの十字架の受難と死、そして復活は、私達人間の偏見と無知から出る蔑視や断罪に関係なく、少数者、あらゆる  違いを持つ人々を含む全人類への憐れみの結果でもあったことを信じています。
•そして、その中でも、自分が持つ違いが、もはや悲しみと嘆きでしかないと思う人々をこそ、神はご自分の教会に招き入れ、神の愛と恵みと平和が何よりも勝って行き渡る共同体の一員としてくださることを信じています。
•人種、民族、文化、言語、経済力の違いから始まり、性的少数者のLGBTQの人々に至まで、すべての人々との連帯と一致こそ、
キリストがくださった新しい掟である「隣人愛」が結ぶ実であると信じています。
私たちは:
•聖書に書かれた言葉が、その内容を含めての一字一句が、全くをもって誤りのないものであるとは信じません。
*「ルターは、聖書こそあの緑児イエスを寝かせた飼い葉桶のようなものだと考えました。なぜなら、聖書は生ける御ことばであるキリストを抱えていた物だったからです。イエスが寝かされていた飼い葉桶は、実際に貧しい農家で使われていたものでした。だから、木の一部が裂けて割れ目があったり、さびた釘が曲がったまま打ち付けられていたりしても何も不思議ではありません。同じく聖書も、限られた能力と知識を持って、限られた場所で、限られた時間を生きた人々によって書かれたものに過ぎません。だから、聖書には、人間的なミスや間違いや偏見のようなものも含まれています。しかし、と同時に新約と旧約を通して、生ける御ことば、すなわちイエスキリストをも確かに含んでいるわけです。」
•私達が一生懸命に信仰生活を送り、神に祈り求めれば必ず物質的な祝福を受けられるということを信じません。
*神の救いは、私達のいかなる努力や業績や行いによるものではなく、あくまで神の一方的な恵みでもって信仰によって与えられるギフトです。
「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。 行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。」(エフェソ信徒への手紙2:8−9)